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タイ国内に4000軒以上の屋台を持つ男
〜バミー麺にこだわり続けた『チャイシー』の物語〜

タイ国内に4000軒以上の屋台を持つ男〜バミー麺にこだわり続けた『チャイシー』の物語〜

サラブリー県のとある農園で、20人近くの少年が大豆や綿を収穫する作業に従事している。歳の頃は12、3歳の彼らは、ロイエット県から集団で出稼ぎに来ているのだ。
1970年代、今でもロイエット県などのイサーン地方(タイ東北部)は貧しいと言われているが、当時はさらにひどく、小学校を卒業した少年でさえも近県やバンコクに出稼ぎに出なければならないほど、慢性化した貧困にあえいでいた。

農園で働く少年たちは小学校を卒業したばかりの年齢である。出稼ぎに来た少年たちは3ヶ月ほどこの農園で働き、家族への仕送りを持って帰郷を予定していた。しかし実際そうはいかなかった。彼らのほとんどが、働き始めて2週間ほどでロイエット県へ帰ってしまったのだ。
帰郷した理由とは、乾季ならではの”冷え込み”が我慢できなかったためである。
当時、サラブリー県の農場では15時ごろになると冷え込み始め、20度以下になる時季があった。日本で20度以下というと冷え込みとは表現されないが、タイだと肌寒いと感じる気温である。夜になるとさらに冷え込み、掛け布団がなくては眠ることすら難しい。しかし出稼ぎの少年たちには金がなく、布団を買うことすらできなかったため、冷え込みに耐えられなくなった少年たちはロイエット県に帰郷したのだ。
だが全員が帰ったわけではなかった。たった一人だけ農園に残り働き続ける少年がいた。
彼は映画で見た俳優が履いていたジーンズがどうしても欲しく、冷え込みに耐え、働き続けたのだ。
収入は、綿1キロを収穫すれば50サターン(0.5バーツ)。1日に10キロが限界だったので日給は5バーツ。当時はクイッティアオが25サターンだったので、クイッティアオ2杯分が日当である。

働き始めて3ヶ月ほどが経ち、彼はようやくジーンズを購入することができた。値段は約80バーツ。彼は家族への仕送り分のお金とジーンズを握りしめ、ロイエット県へと帰郷した。
短いようで長かった3ヶ月。母親との対面も楽しみにしていた。笑顔で迎えてくれると思っていたが、息子の顔を見るなり母親は涙を流した。

「どうして友達と一緒に帰ってこなかったの? あなただけ帰ってこなかったからお母さん心配してたのよ」

他20名近くの子供たちはロイエット県へと帰ったのに、我が息子の姿だけがなかった。このころ携帯電話は当然なく、息子の状況を知ることができなかった母親は、心労を抱えていたのだ。
12歳の息子を出稼ぎになど出したくはなかったはずである。しかしイサーン地方に蔓延していた貧困は、それを許さなかった。

涙を流す母親に抱かれたロブ少年。彼は貧困が故に小学校しか卒業できず、その後もバンコクへ出て働き続けることになる。
そんな彼が十数年後に屋台で大成功を収め、4000店舗以上の屋台を展開する『チャイシー』の社長となる日が来ることを、誰が想像できただろうか。

小学校卒業後にバンコクへ移住

タイ在住者、もしくは何度もタイへ旅行で訪れている人なら、黄色い看板を掲げたバミー屋台を見かけたことがあるだろう。
『チャイシー(ชายสี)』というバミー屋台である。私が初めてこの屋台でバミーを食べたのは3年ほど前、スクンビット・ソイ22にある店だった。
のちにこの屋台と同じ看板を他でも見かけ、漠然とフランチャイズ展開していることを知った。タイの地方でも見かけることがあり、タイ南部パンガン島の辺鄙な場所で看板を目にしたときはさすがに驚いた。

タイ南部パンガン島で見かけた『チャイシー』

これだけの屋台をフランチャイズ化し、成功へと導いた人にぜひ会ってみたい。
『チャイシー』創業者とのインタビューが実現したのは2019年のソンクラーンを迎える4月初旬だった。
パトゥムターニー県にある『チャイシー』の本社は広大な敷地の中にあり、自社ビルがそびえ、黄色い看板が掲げられている。上階の社長室へと招かれた。

本名パンロップ・ガムラー(พันธ์รบ กำลา)、通称名はロブ。出身地は冒頭でも記述したようにイサーン地方のロイエット県である。
米の農家を営んでいた両親のもとに生まれ、ロブ氏は小学校の頃から家業を手伝うことになる。

「小学校を卒業して1年後にはバンコクのプラプラデーンにある釘工場へ出稼ぎに行ってました。でも1ヶ月でロイエットに帰りました。給料が安くてご飯がまともに食べられなかったんです」

ロイエット県へと戻ったロブ氏だが、実家は貧しく、かといってロイエット県では仕事を見つけられないため、冒頭で記述したサラブリー県へ集団で出稼ぎへ行くことにした。
サラブリー県から帰ったあと仕事を求め次はバンコクへ上京。いくつかの仕事に就き21歳を迎えたころ、タイの徴兵制度によって兵役に服することになる。

「兵役に就いてからビジネスに関心が向くようになったんです。お金になることなら何でもやりました。たとえば友達の代わりに当番をやったり、お金を貸して利子をもらったり。そのほか兵役では月に600バーツがもらえました。私はぜんぜん遊ばなかったので、兵役が終わるころには6万バーツの貯金があったんです」

彼が兵役を終えた23歳は1986年である。6万バーツは現在の換算レートで20万円以上。当時としてはかなりの額だ。
兵役を終えた翌年の1987年には結婚。1988年には第一子が誕生。プライベートでは順調だったが、仕事はそれほどうまくはいってなかった。
結婚後、ロイエット県で妻と妻の両親とともに暮らしつつ竹製のカゴを作ったりしていたが、それほどの金にはならない。
カンチャナブリー県まで出向き唐辛子を収穫する仕事にも就いた。
そういった生活を4年ほど過ごしたころ、ルークチン(肉団子)の配送業務をしている弟から仕事の相談が舞い込んだ。

納得できるバミー麺ができるまで1年かかった

「ルークチンやクイッティアオを飲食店で扱っている人を探しているんだ。誰か知っている人がいれば紹介してほしい」

弟は自分が配送している商品をもっと売りたいという思惑があった。ロブ氏は弟からの相談を聞き、ならば自分で屋台を開こうと決意。
場所はパトゥムターニー県のラムルッカ郡。飲食経験などほとんどなかったロブ氏だが、ここでクイッティアオやカオマンガイを屋台で売り始めた。未経験ながら味の工夫や研究を繰り返したことが功を奏し、彼の屋台は大繁盛。2年間で70万バーツの貯金ができたとロブ氏は当時を振り返る。

「私はもともとモノを売ることが向いているのだと思います。周辺の店の中では私の店がもっとも売れていました」

店で売っていたものはすべて自家製だったため、朝早く起きて豚肉を焼き、店の準備や掃除も人に任せず自分で行った。自身の屋台にかける情熱は人並みはずれたものを持っていたのだろう。
ロブ氏は堅実に資金を貯め、あらたに屋台車を二台購入。
1台はクイッティアオを、もう1台ではバミーの販売を始めた。彼の新しい屋台の売り上げも右肩上がりで伸び続け、ロブ氏はさらに潤っていく。人から羨まれるほどの売り上げを上げていたが、屋台で販売しているバミーは理想としているバミーではない。既製品のバミー麺では満足できなくなっていたのだ。

「売れてはいたんですが、仕入れていたバミー麺が安定していないことに不満を感じていました。質を安定させたい。それを叶えるには、自分で麺を作るしかないと思ったんです」

彼は製麺の技術や知識を持っているわけではなかった。それでも、自身で製麺したいという想いに駆られ製麺機を23万バーツで購入。運良く製麺知識を持つ人を見つけることができ、彼はその人から製麺方法を習い始めた。
何度も製麺に挑戦してみる。しかしその出来は散々で、仕入れているバミー麺にすら味のレベルは届かない。”質の安定”どころではなかった。
理想のバミー麺を手に入れるまでは、失敗を重ねるしかなかった。何度も試行錯誤を繰り返す。日々バミー麺を作り続け、自分が納得できるバミー麺が完成するまでおよそ1年を費やしたという。

『チャイシー』がメディアで取り上げられ連絡が殺到

1994年に『チャイシー』という屋号を掲げたバミー屋台は、次第に店舗展開を進めていく。1998年で210店舗まで膨れ上がり、それから出店数はさらに加速。2019年現在では4300店舗以上を屋台をフランチャイズ展開している。
魔法をかけたかのように増え続けたバミー屋台。タイ全土で4000店舗以上を展開できた仕組みとは、いったいどのようなものなのか。
出店が増え始めたのは、ふるさとへの帰郷がきっかけだったという。

「屋台を始めて儲かりだしたころ、自分で買った車で実家に帰ったことがあるんです。当時、私の村で車を持っているのは先生や警察といった職業だけでした。なので私が車を持っていることにかなり驚かれました」

ーーバンコクではバミーを売ればこんなに儲かるのか。

村の人々の目が輝いた。ロブ氏の仕事に興味を持ち始める者は多く、彼をたよってバンコクへ移住しバミー屋台を開いた村人も少なくなかったという。バンコクだけではない。故郷ロイエット県の村や近県のチェンマイなどでもバミー屋台を始める者も出てきたのだ。
彼は「バミー屋台をやりたい」と申し出てきた者には、徹底して世話を焼いた。出店場所を一緒に考える、部屋探しを手伝ってあげる、バミーの作り方や売り方の伝授まで、とことん面倒を見た。
その評判は広がり、ついにはテレビ番組から出演のオファーが舞い込むまでにいたった。

「テレビへ出たあと、ものすごいたくさんの電話がかかってきました。『私もフランチャイズで出店したい』という連絡です。しかしそのとき私は、”フランチャイズ”という言葉の意味が分からなかったんです」

それまで彼は、バミー屋台を出店したいと申し出があった者に対しレシピや売り方のコツなどを教えてはいたが、契約などは一切しておらず、彼らから得ていたのはバミー麺の販売収益だけだった。”フランチャイズ”という仕組みを知らなかったのだ。
テレビ出演をきっかけに雑誌などの取材も増え、『チャイシー』への出店希望も殺到。のちに『チャイシー』はフランチャイズ契約を始め、バンコクだけではなく地方都市への出店も増やしていくようになる。
フランチャイズ料は1年で4000バーツ。バミーの調理に必要な道具は4万7000バーツで買取りとなっているが、屋台はレンタルである。

調理で使う砂糖、お酢、唐辛子のほか、ルークチンやムーデーン、豚ミンチは本社敷地内の工場で製造。バミー麺とワンタン(ギアウ)はタイ国内の各エリアにある製麺工場で作られ配送している。
ロブ氏が屋台時代に見せていたバミー麺へのこだわりは、全国規模になった今でも随所に表れている。

「いい商品を作るには、いい素材を使うことです。バミー麺に使用している小麦粉は、入手できる中でもっともグレードの高い物を使っています。卵もそうです。一番新鮮な卵を使用しています」

タイ国内の各エリアに製麺工場を設けたのは、防腐剤を添加していない麺をなるべく早く店舗へ送らなければならないためである。徹底したこだわりは各方面に認められ、『チャイシー』の工場はタイでは数少ないハラール認証のHalal ISOを取得。そのほかにも数々の認証を得ることができている。

本社敷地内の製麺工場内。

タイ全土に7つの配送センターを展開

屋台店主からスタートしたロブ氏だが、現在は数百名の社員を抱える企業の経営者である。バミーの成功で甘んじているはずはなく、次なる戦略はすでに始まっている。
本社ビルの前には工場直送のバミー麺が食べられる店舗型『チャイシー』のほか、『ChaYang』という飲料専門店が営業しているのだが、次の一手がこの店だ。『ChaYang』は私が取材で訪れたその日がグランドオープンだった。

「もうバミー屋台の『チャイシー』はピークを超えています。これ以上、爆発的に店舗数が増えることはないでしょう。だからこそ我々は新しいビジネスをスタートさせなければなりません」

本社敷地内にある『ChaYang』。

これまで『チャイシー』ではバミーのほか、ローストダックやカオマンガイ、ジョーク(お粥)といった商品も開発してきたが、今回開発したのは初となる飲料の”タピオカミルク”である。
新商品を売る『ChaYang』は本社ビル前のほか、ランパーン県やマハサラカム県などで5店舗が営業を開始。本社ビル前の店舗では1日に2、300杯ほどが売れている。
チャイシーグループが持つタイ全土の配送センターがあれば、タイのどこであろうと出店は難しくない。ロブ氏いわく『チャイシー』の強みはこの”配送網”にあるという。

「他会社でも商品開発はできるのですが、送ることが難しい。うちの会社は全国に7つの配送センターを持っていますので商品を開発すればすぐ、タイのどこにでも届けることができるんです」

7つの配送センターがあるのは本社ビルのパトゥンタニー県(中部)、ランパーン県(北部)、ピサヌローク県(北部)、ウドンタニ県(東北部)、マハサラカム県(東北部)、チョンブリー県(中部)、スラタニー県(南部)と、北から南まで見事タイ全土をカバーしている。
ロブ氏は今後も商品開発に力を注ぎ、バミーで得た配送網を使って”もう1つの夢”を叶えようとしているのだ。

少年の夢、社長の夢。

ロブ氏がバミーで成功したことにより、彼が生まれ育った村には、バミー屋を開いた者がかなりいるという。

「現在、私の村には150家屋ほどがあるんですが、1軒あたり2、3人はバミーで生計を立てていると思います。つまり私の村から出て行った600人ほどが、タイのどこかでバミー屋をやっている計算ですね」

バンコクや他の都市へ出向きバミー屋を出店した村人の中には、月に6万バーツほど稼いている者もいる。300万バーツの一軒家を建て、3台以上の車を所有しているバミー長者も現れた。
ソンクラーン(タイの正月)になると、タイ各地でバミー屋を営んでいる人々が車で帰郷し、大渋滞になることもある。

「チャイシーのバミー屋をやっている人の中には、家を買い、子供を大学まで行かせ、しっかり貯金できている人も少なくありません。私に携わっている方が一人でも多く幸せになってもらえるのは、私自身も嬉しいです」

貧しかった村が『チャイシー』によって潤った。
会社も軌道に乗り、タイ全土に配送できるシステムまで構築されている。
だが彼はまだ満足していない。
先に述べた”もう1つの夢”に向かっている

ーー2021年までに証券取引所への上場。

インタビューの最後、彼が語った現在の目標であり夢である。2021年と期限を決め、『チャイシー』を上場するために動き始めているのだ。
上場は単純に見栄だけでしようとしているわけではない。
上場することによって得られる信頼は企業を成長させ、さらに国際的な信頼を得ることもできる。そうなれば海外展開も夢ではなく”バミー”を世界へ届けられる道が開けるだろう。タイ国内だけではなく、世界をマーケットしたいという想いが秘められているのだ。
もちろん上場するにはいくつもの超えなければならないハードルがあるが、それらを乗り越えるためのチームは編成された。

「たとえ遅れても2022年までには上場を果たしたい」

午前4時、あまりの冷え込みで目が覚めた。掛け布団はなく、暖をとるための火もない。
ロイエット県から一緒に出てきた20人近い友人たちは、この寒さに耐えかね帰ってしまった。ロブ少年は寒さと孤独に耐えながら、身体を小刻みに震わせる。
彼が故郷に帰らなかったのは、ジーンズを購入したかったからだ。
目をつぶり、ジーンズを履いた映画俳優の姿を思い出す。

ーー80バーツが貯まればジーンズが買える

ひっそりとした部屋の中、耐え難い冷え込みに身体を震わせつつ、少年は瞼の裏に映画俳優を観てそっと微笑んだ。
農園の遥か向こうから、ぼんやりとした朝陽が射し始める。
冷え込んだサラブリー県に、朝が訪れた。

取材・文・撮影/西尾 康晴

1974年生まれ大阪府出身。大阪と東京で雑誌編集者として勤務し、2011年にタイへ移住。バンコクで月刊誌の編集長を経て2017年4月にタイ国内旅行会社TRIPULL(THAILAND)Co.,Ltd.を起業し旅行メディアTRIPULLも運営。
Twitter:nishioyasuharu

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COMMENTS & TRACKBACKS

  • Comments ( 4 )
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  1. 素敵な話ですね。文章うまいです!さすが。

  2. By HIROSHI MURAYAMA

    今度タイに行った時は食べてみます。

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